百人一首の起源・歴史・由来とは?

百人一首の起源・由来

百人一首の起源は西暦1,300年の鎌倉時代までさかのぼります。

鎌倉時代に有名な歌人であった藤原定家が、同じく鎌倉時代の御家人である宇都宮頼綱から「天智天皇から順徳天皇までの約550年間に出た100人の歌人の和歌を1つずつ選んでほしい」と頼まれたこときっかけで誕生しました。

しかし当時は百人一首という名前はなく、ただ和歌が100個選ばれただけでした。百人一首という名前がついたのは室町時代、さらにかるたになったのは江戸時代のことです。

また百人一首といえば「小倉百人一首」が一般的ですが、その名は藤原定家が和歌を選ぶ際、京都嵯峨の小倉山にこもって選んだことに由来します。

百人一首には小倉百人一首の他にも、1483年室町幕府の将軍足利義尚が選んだ「新百人一首」のほか、武士の和歌だけで構成された「武家百人一首」や女性の和歌だけで構成された「女百人一首」、江戸時代には「蔵笥(ぞうし)百首」という、教育目的ともとれる百人一首まで誕生しました。

百人一首とかるたの歴史

百人一首といえば今は競技かるたが有名ですが、百人一首がかるたになったのは江戸時代になってからのことです。

かるたの語源は、ポルトガル語のカルタ(カード、札)が語源です。江戸時代に庶民向けの娯楽として、和歌と絵札で大人子ども関係なく楽しめる遊びとして普及していきました。

現代では年中行事の遊びとしても馴染み深い百人一首ですが、百人一首としては1,300年の歴史があるものの、百人一首かるたとしてはまだ400年ほどの遊びなのです。

百人一首の都市伝説

伝統ある百人一首ですが、実は都市伝説もあります。それは「選ばれた和歌が政治的によるものではないか」ということです。

というのも、100人の歌人から1つずつ選ばれた際、専門家目線で「なぜその歌を選んだ?」と言われる歌が多数紛れているからです。

たとえば、以下の歌などです。

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

第55歌:藤原公任(きんとう)

一見すると意味のわかりやすい和歌ですが、歌壇や国文学の世界では「藤原公任ならもっと良い歌があるのでは?」と評する人が多いようです。

他にも明治時代の有名な国語学研究家である正岡子規は、以下の和歌を「初霜が降りたくらいで白菊が見えなくなるわけない。これは嘘なのでは?」と酷評しています。

心あてに 折らばや 折らむ初霜の おきまどはせる 白菊の花

また秀歌ではなく一首に入っている和歌として、後鳥羽上皇と崇徳上皇の和歌が含まれています。後鳥羽上皇と崇徳上皇は承久の乱の首謀者であることからも、一首を選んだ後に政治的配慮を踏まえて秀歌を選んだとする声もあります。